東南アジアと日本を繋ぐ途上国起業 ~出会いの連鎖がチャンスをつくる~
2022.07.19
皆さま、こんにちは。DIVERSITY TIMESライターの齊藤です。
外国人生活サポートのプラットフォーム「ASEAN HOUSE」では、
東南アジアから日本へやってきた人々が共に暮らし、人材紹介や外国人向けの生活支援事業を展開しています。
海外での起業や株式会社リクルートを経て、なぜ日本でシェアハウスをつくり、人材業を始めたのでしょうか。
多国籍の人で賑わうASEAN HOUSE誕生までのドラマを、設立者の佐々 翔太郎さんにお伺いしました。
__ASEAN HOUSE設立は2019年ということですが、まずは大学時代から現在のお仕事に就かれるまでをお聞きしたいと思います。初めての海外渡航は大学1年生の時ということですが、なぜフィリピンに行こうと思われたのでしょうか。
佐々 翔太郎(以下「佐々」):可愛い先輩がいて、お近づきになりたかったからです(笑)
__ではその方がいらっしゃらなかったら、今のお仕事はされていなかったかもしれませんね(笑)
佐々:そうだと思います。講演などでお話しさせていただくときに言っているのですが、キッカケはなんでもいいのかなと思います。日々生きていて、ひょんなことから何か興味のあるものを見つける、好きになる、それでいいと思います。
__佐々さんにとって、フィリピン渡航はどういった経験になりましたか。
佐々:フィリピンに行って、「世界広っ!」と思いましたね。当時は家庭環境のことや大学受験の失敗などがあったのですが、自分の悩みがちっぽけに感じました。
自分より遥かに過酷な環境にいて、それでも目の前のことに一生懸命取り組んでいるという人にたくさん出会いましたから。
この経験が1つ目のターニングポイントで、国際協力に関心を持ち始められたことです。そこにいる、自分とは正反対の人々が魅力的に見えました。
フィリピンの人たちは温かいので、第二の家族という感じでした。なのでその人たちのためでもあり、かつ、このフィールドで何かおもしろいことをやりたいなと思いましたね。
__その後、バックパッカーとして30カ国以上回られたということですが、アジアの国が多かったですか?
佐々:そうですね。アメリカにも行きましたが、かなり差別を受けました。それよりは歓迎される東南アジアの方が嬉しいし、これからの日本のことを考えたら、アジアの国々と手を携える事は絶対に必要だと思います。
留学というと欧米に行く人が多いですが、途上国留学をおすすめしています。優秀な人が途上国に留学するような流れをつくることが今後は重要ですね。
__東南アジアの国々を訪れていて、佐々さんの中で日本の問題との繋がりが生じたきっかけというのは何かあったのでしょうか。
佐々:元々、国際関係に関心はありました。
その際に自分自身でもいろいろ調べていて、東南アジアとの関係も含めて微妙な立ち位置にあるということがわかりました。
大学では米中関係が専門の先生のゼミに入って、国際関係だけは真面目に勉強していましたね。
それで途上国を訪れては現地の人にインタビューをして、机上の空論ではなくプラクティカルに考えるということを旅の中でやっていましたね。
__それまで学ばれていたことと結び付いたんですね。
佐々:長期休みのたびに東南アジアをはじめとした途上国などを回って、学校建設なんかも手伝っていました。そのあと、インターンに行くわけですが、ちょうど大学の国際インターンという授業の中で「ミャンマープロジェクトを始めよう」という年だったんですね。それで手を上げて、自分のテーマである平和構築とマイクロファイナンスの研究をしに1ヶ月間ミャンマーに行きました。
最初の感想は「この国…合わないな…」でしたね。日本人もミャンマー人もシャイな人が多いから、フィリピンの時と違ってなかなか距離が縮まらなかったんですね。そのままインターンは終えたんですが、現地で仲良くなった経営者の方がいて、「うちの会社で働かないか」と声をかけてくれたんです。それでインターンの半年後にまた2ヶ月間の渡航をしました。
その頃にちょうど、東進ハイスクールのような映像授業を途上国に持っていく「e-Education」というプロジェクトに出会ったのですが、その2回のミャンマー滞在経験を活かして、大学4年生の時にミャンマーのプロジェクトリーダーとして現地にあるパートナー会社の統括を任されることになりました。
e-Educationはバングラデシュからスタートし、大学入学者を出したことのない村から最高学府であるダッカ大学に合格者を出すほどの実績を出しています。なのでこれを五大陸に広めようということで、ルワンダ、パラグアイ、ルーマニア、インド、ラオス、フィリピンなど広まっていく中、僕がミャンマーで携わらせてもらえることになりました。
その頃から「トビタテ留学JAPAN」の奨学金も使えるようになったので、それをとりつつe-Educationに参加していましたね。
それでミャンマーでもバングラデシュと同じことをやろうということで、向こうの林修先生のような方を探しました。
英語が得意なわけでもなかったんですが、「Where is a very good teacher?」という聞き込み調査をして、見つけた方に頼み込んで映像授業を撮りました。
当時は2Gくらいしか走っていないので、USBにデータを入れて、30時間くらいバンで運ばれて、チン州まで行きました。
__かなりの時間ですね。
佐々:ミャンマーは日本の1.5倍も面積があるので、結構広いんですよね。
チン州の地方政府と組んで、教育格差是正を目指していたのですが、やりながらまだ映像授業というようなフェーズにないなと感じました。なぜ勉強するのか、その先が見えないせいでなかなかやる気のある学生がいないんですよね。現地語での進学情報、キャリア情報が少なすぎるんだということで、「トビタテ留学JAPAN」の奨学金で起業をしてしまうという史上初のことをしました(笑)それが「Live the Dream Co. Ltd.,」です。
ここまで振り返ってみると、勉強させてくれた親には本当に感謝ですね。いったん頑張ってみたことが結果このような結びついてきたので、すごく大事だなと思います。モチベーションは目立ちたいからとかそんなことからでもいいので。
__進学云々の前に、「こういうことやりたい」というモチベーションを見つけてもらうということですね。
佐々:実践的なことは何も分からない中でのスタートで、クラウドファンディングから始めました。ただ、学生起業家だとか日本人ということで注目を集められたのか、周囲の皆さんからいろいろ助けていただきました。
当時やろうとしていたのは、キャリア情報というのもそうなんですが、まずは夢を持ってもらいたいなということで、ミャンマー版の「13歳のハローワーク」みたいなものを作りたかったんですね。
それでいろんな方に頼み込んで取材をして、記事を書いていました。
ユーザーが伸びない時期やストライキなどもありましたが、なんとか収益化に持っていけましたね。
2014年当時はインターンの黎明期で、日本では今ほど一般的ではなかったのですが、いい制度だなと思っていました。ミャンマーでは月1万円で人が雇えてしまうので、アルバイトというものがないんですね。でも学生はバイトしたいですよね。
社会経験がないままいきなり就職、というのは大変なことも多く社会問題でもあったんですね。
その点、こちらもお金が無いのでちょうど良かったのです。現地で長期インターンシップという形で雇用させていただいていました。それが国内初の試みだったようで、3日で100人くらいから応募が来て、そこから社員も採用させていただきました。ただ、入社していただいた10名は経験も少なく、僕の英語力が不足していたこともあって、なかなか意思疎通が難しかったシーンがありました。でもその時の経験は今でも生きていて、できそうなことをやり続けることができるメンタルを手に入れられました。
__最初の起業が海外でというのはすごいですよね。
佐々:大変でしたけど、そこで起業って楽しいなと思いました。自分にはすごく合っていると思います。マネジメントに関わっていると人間ドラマがたくさんあるし、「佐々翔太郎」という人間で取引してもらえるかもらえないかが決まる部分があって、そういう自分が試される環境が好きだなと思います。
__さきほど途上国への留学はおすすめというお話もありました。
佐々:途上国で事業をやることのおもしろさとして、自分が社会を変えている!という手応えが得やすいということがあります。Live the Dreamでユーザーを100万人獲得して、いろんなところで自分たちが作っている動画を見て涙してくれている人を見かけたりするので。
自分でも世界を変えられる。
先進国に行ってしまったら主体的にプロジェクトを動かせる機会に巡り合いづらいかもしれませんが、途上国だと自身が中心となって社会に大きく貢献することができるんですよね。
__政界の人も近い感じがあるんですね。
佐々:近いし、上のレイヤーが薄いので繋がりやすいんですよね。それによって社会を変えられる可能性があるので、途上国での起業が楽しいなと感じています。
ただ、なんとなく“国際協力”感が抜けなかったんですよ。
もちろん国際協力はとても大事なことなんですが、自分がカンボジアで学校建設に関わっていた時に、「隣の村はどう思うんだろうな」と気になったんですね。そこで僻みが生まれたりしないのかな、と。
もう少しマスに対して働きかけたいという思いがありました。学校経営も難しくて、廃れてしまうものもあるし、もっとサスティナブルに貢献できて、ソーシャルかつビジネスライクな事業を考えていました。
__なるほど。そういったところから、事業を続けるのではなく新しいことを始めようと考えられたのでしょうか。
佐々:ターニングポイントはいくつかあって、ひとつは社員からの言葉でした。
ストライキが起きた時に、新卒で入社してくれた子から「なんだかんだで佐々に感謝しているよ」と言われたんですね。その子の学歴だと他のところに入社するのはたぶん難しかったんですが、仕事に対するスタンスが素晴らしいなと思い採用した方でした。「あなたが日本から来て起業したおかげで、私は月5,000円の仕送りをして妹を学校に行かせることができた」と。その時に本当に鳥肌が立って。初めて、「生まれてきてよかった」と心から思えました。
それまでのモチベーションは誰かを見返してやりたいとか、ネガティブな感情が原動力にあったんですが、「僕の力で変えられることがあるんだ」とポジティブな言動力に変わりました。目の前の人にありがとうと言われることが本当に嬉しかったですね。僕にとっての「国際協力」は、雇用を生み続けて、生活できる人を増やしていくということだなとその時に思いました。
__今やっていらっしゃることに直結していますよね。
佐々:そうですね。田舎から出てきた子にとって初めて会う外国人が自分だったんですよね。なので、僕に悪いイメージがつくと…外国人、日本人に対して悪い印象を持たせてしまう。でも社員の子は日本を大好きになってくれて、大学のゼミの先生の「人間関係は国際関係、国際関係は人間関係」という言葉を思い出しました。
ひとりひとりがいい関係を築けば世界は平和になる、それならいろんなところを飛び回る「SASA財閥」を作りたいなと。雇用を生み出して仕送りをできる人を増やしつつ、いろんな国の人を雇ってグローバルカンパニーを創った先に、平和に貢献できるのではないかと思っています。だから大きな会社を創りたい気持ちはありますね。
そう考えた時に、新卒のタイミングでやるべきことはミャンマーでのメディアづくりではないなと感じ、日本に帰ることを決めました。「Live the Dream」は、子会社化してもらう形で引き継ぎました。
就職活動もして、これから間違いなくITが来ること、営業の勉強をしたいということでリクルートに入りました。営業で引っ張っていける社長じゃないとダメだなと思っていたんですよね。新卒から3年間修行させてもらいました。
__やはり鍛えられましたか?
佐々:そうですね…結果を出してきたという自負もあって尖っていたと思うんですけど、その割には成績が伸びなくて、いったん謙虚になって自分に足りないものを見つめ直すという意味でいい時間だったかなと思います。
その時の経験のおかげで今営業がうまく行っているかなと思いますしね。ただ、今はインターンがあるので、そこから起業ということも可能になりましたよね。
__確かに、やり方は増えていそうですね。
佐々:はい、なので就職しないという道もあったと振り返って思います。
行き帰りにミャンマーの音楽を聴いていたり、口を開けばミャンマーの話ということで、リクルートではあだ名が「ミャンマー」でしたね(笑)
そんな時にミャンマー料理の店に行った際、「日本があんまり好きじゃない」というミャンマー人の子に会ったんですね。話を聞くと、ちょっと差別のようなことをされている。そのときに、日本に行きたいミャンマー人はたくさんいるけど、いざ日本に来てみたら「日本嫌だ」と思う人もいて、その差が気になりました。
「じゃあリクルートにいながらできることってなんだろう」と考えて、このASEAN HOUSEを作りました。技能実習制度などで働きに来ている人って、職場からあまり出ないじゃないですか。自分の好きなミャンマー人に日本のことを好きになってもらいたい、いろんな人と交流してほしいという想いでつくりましたね。
そうこうしているうちに、ミャンマーであのクーデターが起こりました。
友達や弊社スタッフも大変な目にあったりして、売却したLive the Dreamも会社として休止に追い込まれました。そんな中で、自分は何もできていないのではないかとすごく情けなくなりました。
自分が日本でできることは何かを考えて、ちょうどASEAN HOUSEで一室空いていたところに帰れなくなったミャンマー人を受け入れたり、励ましのメッセージを送ったり、ミャンマーの”今”を知ってもらうためのイベントを開いたり、デモ活動に参加したり。
あとはSNSマーケティングの経験があったので、そういったところから民主活動を後押ししましたね。とはいえ、今この問題に対してちゃんと戦いたい、自分がやれることとして、失踪者を出したりする技能実習制度の問題にちゃんと向き合いたいとも思っています。
日本史上では明治維新に近いものを感じますね。江戸末期も非常に大変な時代だったと思うのですが、薩摩や長州の方は欧米で先進的な知識を学び、皆が平等に平和に暮らせる世の中を創ることを目指し明治維新を成し遂げています。
その当時の薩長の方というのが今でいうミャンマーの若き獅子たち、先進的な知識を学べる場が彼らにとっては日本なのかなと感じます。であれば、彼らが力を蓄え次なる挑戦に臨めるよう、外国人へ仕事を紹介する事業者として精一杯サポートしたい。こう考えました。
それがちょうど1年前くらいですね。そこから人材事業を立ち上げて今に至ります。ASEAN HOUSEも2号店ができました。主に登録支援機関と、特定技能外国人の紹介をしています。ミャンマー人向けの日本就活メディアのフォロワーが1万人くらいなので、日本にいるミャンマー人の3分の1はカバーしているかなという感じですね。
__この事業に携わる上での強みは何かありますか?
佐々:弊社は今平均年齢26歳で、外国人率8割です。SNSネイティブの世代ばかりなので、そういった方面では強いと思います。
また、各国の現地語でメディアを分けています。6カ国語×TikTok、Facebook、Instagramで、18のメディアを動かしていますね。
徹底して現地化にこだわっています。
何の言語で、どういう単語で検索しているのか、そういったインサイトが掴める仕組みをたまたまシェアハウス経営を通して外国人と一緒に住むことで持っていたので、強みでもありますし、登録支援機関としてのサービス内容にもつながっているかなと思います。
SNSの集客力はかなりいいですね。
もうひとつの強みはユーザーへの手厚いサポートで、これも需要がはっきり掴めるからこそできていると思います。たとえば、N2受かったら合格お祝い金出します、という仕掛けをしたりとか。これも実際に外国人と関わっているから思いつくことではないかと思います。
特定技能は外国人採用の民主化だと思っています。今までは民間企業が入りづらかったし、競争原理がないから外国人のためのサービスをよくしようというインセンティブが湧かなかったと思うんですよ。
外国人が転職できるようになって、外国人をフォローしなければいけなくなりましたよね。最近外国人定着コンサルティングというサービスをやっていて、最初の1日目、日本人もボランティアとして一緒に派遣して働かせますという内容です。飲食店でメニューを覚えるにしても、現地人スタッフが通訳してちゃんと母語で説明してあげる。経営者の方に対しても、たとえばヒジャブにどういう意味があるのかを説明する。
そうやって定着を目指し、経営者側にも理解を深めてもらい、外国人には能力を高めてもらって、特定技能をかっこいい職業にしたいと考えています。
人が足りないから雇うのではなくて、外国から来た人が優秀でいい人だから一緒に働くんだ、というふうにしていきたいです。
つまるところ僕が実現したいのは「移民版リクルートを創る」ということですね。移民だからこその困りごとって絶対あるので、全面的にライフサポートを提供することで、そういったひとつひとつの生活課題を解決したいと思っています。
その過程でASEAN HOUSEを認識していただきたいですね。まずは人材事業でNo. 1を目指し、その先に不動産や結婚などのまったく異なる領域に広げていくことで、移民版リクルートという構想を実現していこうと考えています。
__波乱万丈のお話、ありがとうございました。日本と東南アジアを繋ぐASEAN HOUSEに私も住んでみたくなりました。本日は貴重なお時間をいただき、ありがとうございました。